仙行寺の歴史
当山は、江戸初期に善行院(開山善性院日迢上人)として東京都小石川指ヶ谷町で開山される。時は下り明治四十年、隣接の仙應院(開山仙通院日正上人)と合併し松栄山仙行寺(開基和光院日貞上人)と改号す。同四十五年、道路改修の為に豊島区蟹ヶ窪の地に移転し、以来法灯連綿と伽藍相続されしも昭和二十年、東京大空襲の戦火に遇い堂宇尽く烏有に帰す。残る所は浄行菩薩石像と過去帳のみ。その後区画整理の為、再度豊島区雑司が谷に移転せられるが、以来本堂も再建出来ない状況が長く続き、十畳二間にご本尊を安置するのみの寺であった。
昭和三十三年、先代住職・朝比奈日晟上人が練馬妙安寺から池袋仙行寺へと移り住み、仙行寺混迷多難の時期に第二十七世住職となる。(日晟上人は練馬区妙安寺で生を受けるも、昭和二十六年、上人がまだ学生時に上人師父が五十五歳で急逝され、その後「遺児に寺を継がせる」という遺言があったものの、寺の運営を任せていた執事により上人寺族は寺を離れる事を余儀なくされ、そして移り住む事になったのが、当該執事が住職を務めていた池袋仙行寺であった。)
上人、戦後の苦難を耐え忍び法城再興の思念やむ事無く、ついに昭和四十年、戦前の本堂の姿をそのままに本堂再建なる。以来上人は仙行寺復興の為、昼夜の暇無く様々な事業に着手す。
教線拡張を志しては神奈川県厚木市に新寺を建立し、久遠山仙行寺と号す。併設して「森の里霊園」を開園し、厚木仙行寺の基盤と成す。更に葬祭場「沙羅ホール」や、文化会館「シアターグリーン」を開設し、次々と寺門を整備し法城その面目を一新す。
現在法灯は第二十八世朝比奈文邃上人に継承され、厚木仙行寺第二霊園「ふるさとの丘」の開園、及び池袋仙行寺新本堂建立並び屋内墓苑事業に及んでいる。